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第八十話:骸骨

解説:「慶運法師骸骨の絵賛に、かへし見よおのが心はなに物ぞ色を見声をきくにつけても」(今昔画図続百鬼)

歌川国芳の浮世絵に、画面いっぱいに描かれた巨大髑髏の画があるが、あれは山東京伝作「善知安方忠義伝」の中の一場面である。原作では普通の人間大の骸骨が沢山現れ、戦闘を繰り広げるのだが、国芳はこれら骸骨の群れを、一つの巨大骸骨として描いたのである。非常に印象の強い画であるため、今では国芳の描いた浮世絵の中で最も有名なものの一つとなっている。
骸骨に関する話を探してみるに、浅井了意「伽婢子」に次のような話がある。


●長間佐太は美濃の国の者である。文亀丙寅の年、公方の軍役として駆り立てられ、京都に上り、役目が終わっても美濃に帰らなかった。

忘れてもまた手に執らじあづさ弓 もとの家路をひきはなれては
(もと居た故郷から引き離された私は、もう決して弓をとるまい)

と詠んで、仏の道に目覚め、都の北の柏の片隅で草庵を結んだ。さすがに物乞いをするのは気が引けたので、北山へ行って柴を買いうけ、都へ出てそれを売った。僅かな利益を得て餅を食い、酒を買って飲みながら、庵に帰るときには尻を叩いて歌を歌い、ある時は寺へ行って庭の塵取りをし、仏前の埃をはらって掃除をした。そして日が暮れて帰れなくなると、御堂の軒下で夜を明かし、夜が明ければまた柴を担いで売りに出た。渋染めの帷子ただ一重さえも肩すそが破れていたが、長間佐太はそれを気にする風でもなかった。
そんな所に土岐成頼という人の家人で石津の何某という人が、同じ故郷のよしみで小袖一つと銭三百文を佐太に与え、
「時々はここにいらして御飯でも召し上がって下さい」
と言った。佐太は小袖と銭を持って庵に帰ったが、四、五日して銭も小袖も石津に返してこんなことを言った。
「物を蓄えるというのは妻子のある人にとってのみ必要なことです。私は家庭に興味もなく、妻子はおりませぬ。独り身の私は行く先を宿とし、食事も手に入るものにまかせ、物事にも執着しませんが、日々の楽しさはそれは言い様もありません。そんなところにこの小袖と銭を庵へ置いておいたら、外に出れば早く帰ろうと思い、外出する時には戸を立て、泥棒に盗られないように用心するあまり、心に暇がなくなり、楽しみも全て消えてしまいます。たかがこれだけのものに気を遣うなどとは、実に浅ましいことでは御座いませぬか」
或る日、北山へ帰ろうとしていて遅くなり、蓮台野についたころには既に夜半であった。すると道の側らに一つの古塚があって、それが突然左右に崩れた。佐太は元来大胆な人間であり、力も強かったので、少しも驚くことなく立ち止まってそれを見てみると、古塚の中が光出し、松明のように辺りを照らした。そこに一揃いの白骨があり、頭から足の先までずっと繋がって居るのに、肉も筋もなかった。ただ手足が繋がっている白骨だけがそこに臥せてあって、その他には何もなかったのである。するとこの白骨、突然むくっと起き上がって、佐太にひしと抱きついてきた。佐太は力の強い男なので、力に任せて突き放すと、それは仰向け様に倒れて頭手足がばらばらと崩れ去り、再び動くことはなかった。すると火の光も消えて辺りは闇に包まれた。その墓がどんな人の墓であるのか、佐太は知らなかった。
次の日行って見ると、白骨が砕け、塚は崩れていた。佐太のその後の行方は分からない。


また、現代ではこんな白骨怪談が伝えられている。

●ある小学校で、理科室の掃除をまかされた生徒数人がいた。
掃除もそろそろ終わるという頃、そのうちの一人があるものを見つけた。
「見ろよ、骸骨の模型だぜ」
生徒達は先生の目を盗んで骸骨を持ち出し、さんざん遊んだ後、片付けもしないで骨格模型をそのまま放り出し、教室へ戻った。
放課後、彼らの一人が模型をそのままにしていたことを思い出し、慌てて理科室へ戻った。ところが骸骨の模型はちゃんと元の位置に片付けてあった。
「先生が片付けてくれたんだ」
生徒がほっとしていたその時、

「お前達、俺を片付けるのを忘れたろう」

生徒がびっくりして声のする方を見ると、何と、その声の主は骨格模型だった。


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