第六十六話:鬼一口

解説:鬼が一口で人間を食べてしまうことをこう言う。危険なことを喩えて「鬼一口」とも呼ぶ。鬼が一瞬にして人間を食べてしまった話として有名なものは、やはり「伊勢物語」の「芥川」の段であろう。この中で、恋人を鬼に食われてしまうのはただ「男」としか書かれていないが、後に歌人の在原業平であるとされた。そして女は藤原高子、女を食べた鬼は、高子の兄の藤原基経、国経であると解釈された。業平の名は「今昔物語」の中に登場する。

●今となってはもう昔のことだが、右近の中将在原業平という人がいた。並々でないほどの女好きで、
「この世にいる女で姿が美しいと聞けば、宮仕えの女でも人の娘でも、残すことなく契りを交わしてやる」
などと思っていた。
そんな時、ある人の娘が世の中でも見た事のないほどに素晴らしいというのを聞き、心を尽くして思い焦がれた。ところが娘の両親は、
「高貴な身分の婿をとらせよう」
と言って娘を大事に育てていたので、中将はどうにも手の出せない状態にいた。しかし、どんな策を採ったのだろうか。業平はその女をこっそり盗み出してしまった。
ところが、すぐに女を隠せるような場所がなかったので思案に困っていたところ、荒廃して誰も住んでいない北山科の古い山荘があり、その敷地の中に片戸の倒れている大きな校倉があった。人の住んでいた家の方は板敷きも板もなくて、立ち入ることも出来なかったので、その蔵のなかに畳十枚を配し、この女を中に入れて一緒に寝ていた。
すると突然稲光がして雷鳴が轟いた。中将は太刀を抜いて女を後ろのほうに追いやり、自分は起き上がって太刀を閃かしていた。するとまもなく雷は止み、夜が明けた。
しかしその間、女が声一つ出さなかったので、不審に思った中将が振り返ってみると、女の首と、女が着ていた着物ばかりがそこにあるだけだった。中将は不気味に思い、怖くなって、自分の着物もそこに置いたまま逃げ去ってしまった。
その後、この倉は人を取る倉だと言うことを知った。それなので、女を取って喰ったのは雷ではなく、倉に住む鬼の仕業ではなかったのだろうか。
こんなこともあるので、様子の分からない場所には決して立ち寄ってはならないのである。ましてやそこに泊まろうなどとは思ってもいけないことなのだ、と語り伝えられた。


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