第六十五話:背中に

解説:これから語る話は、岡本綺堂の「木曽の旅人」という作品の内容とほぼ同じである。綺堂の名文で綴られるとまた違った怖さが湧出してくるので、本頁読了後、そちらも是非御覧頂きたい。
この話もまた、百物語の座には欠かすことの出来ない、非常に有名な怪談である。


●これは信州白馬の中腹にある、「蓮華温泉」という小さな温泉宿で、明治三十年ごろ実際にあった話だと言われている。

或る日、主人とその息子、そしてニ匹の犬だけで暮らしているその宿に一人の紳士がやって来た。
「猟をしに山へ来たのですが、道に迷ってしまい、ようやくここまで辿り着きました。どうか今晩だけ泊めていただけませんか?」
主人は男を泊めてやる事にしたが、夕食の際、寝ていた子供が目覚め、突然ひどく泣き出した。
「どうしたっていうんだ」
「だって、父ちゃん、あのおじさんが怖いんだよお」
すると子供に続いて、飼っていた二匹の犬までもがけたたましく吠え出した。あまりにその様が尋常でなかったので、主人は折角の客に帰ってもらうことにした。
「本当に申し訳ないのですが、子供があなたをひどく怖がって仕方ありません。この先に別の宿があるので、そこを当たってはくれませんか?」
すると男はそれに怒る様子もなく、急に震えだしたかと思うと、外へ飛び出して行ってしまった。

男が去った後、主人は子供に何故あの時男を怖がったのかを問いただした。すると子供は言った。


「だって僕みたんだもん。あのおじさんのせなかに血だらけの女の人がいたのを」


翌朝巡査が宿に訪れ、富山県で若い女を殺した男が、この山の中に逃げ込んでいるということを教えてくれた。懸命な捜索の結果、犯人は逮捕され、後日死刑になった。
死刑が執行される前、その男はこんなことを語ったという。

「うらめしそうな顔をした血だらけのあの女が、いつまでも私の背中にしがみついていて、私から離ようとしなかったのです」


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