拾遺之十四:田中河内介

●田中河内介とは、幕末に活躍した勤皇の志士の一人であり、明治天皇の教育係であったこともある立派な人物である。
この人物を語る上で寺田屋事件は欠かせない。
寺田屋事件と言っても、かの坂本竜馬暗殺事件ではなく、薩摩藩の島津久光によって有馬新七らが討たれた事件である。当時、島津は藩内の尊王派を無視し、朝廷と幕府を合体させようとする公武合体運動を推進していた。尊王派の有馬新七らはこれに不満を持ち、公武合体論者の九条尚忠と京都所司代酒井忠義を討つため、仲間とともに寺田屋に集まっていた。この中に河内介もいた。
尊王派の動きを知った島津は、彼らを説得しようと刺客を寺田屋に差し向けた。ところが尊王派の志士達は説得に応じようとせず、両者の間で激しい争いが起こった。有馬ら六人が死亡し、やがて尊王派は降伏した。河内介とその息子は薩摩に引取られることとなり、船で大阪を出発したが…。

●河内介について長々と説明したが、本題とはこの河内介の死にまつわる怪談である。何と、河内介が寺田屋事件のあとどうなったのかを語ると、語った者に不幸が降りかかるというのだ。そのため誰も語る者がおらず、その話を知っている者は幕末からそう遠くない明治大正期に於いてでさえも、ほんの僅かとなっていた。
以下、池田弥三郎の「日本の幽霊」(中公文庫)に載っていた話を主に参考として、この田中河内介にまつわる身の毛もよだつ様な怪談譚を紹介する。


●向島の百花園とも、画博堂という家で起こった話だとも言われているが真相は分からない。そこで怪談会を催した時の話である。
大正の初め、そこで何人かが怪談話に興じていると、一人の見慣れない男がやってきた。男は自分にもひとつ話をさせてくれという。それは先に話した、あの河内介の死にまつわる話だった。
男は語りだした。座の一同は興味深そうにそれに聞き入った。
ところが、いつまで経っても男は本題に入ろうとしない。語り始めるといつのまにか最初に戻ってしまうのである。やがて皆飽き飽きしてきたわけではないが、一人、二人と少しずつ席を立つものが現れだした。
いつしか部屋は、偶然にも男一人だけとなった。そして皆が一斉に席を外していたその僅かな時間の間に、何と男は死んでしまったのである。結局、河内介の最期は語られることはなかった。


面白いのが、田中貢太郎の話の中では怪談の舞台が「白画堂」となっており、同席者に泉鏡花や市川猿之助らがいたとされていることである。内容も池田版とは僅かに異なっている。また、最後の方に「これは市川猿之助の実話をそのまま」と書いており、この話が実話であることを強調している。
現在では、芸能人が「本当にあった」として都市伝説的な怪談譚を語ることが多くなったが、徳川夢声、市川猿之助などを巻き込んだこの怪談は、その先駆とも言えるだろう。

参考文献;
「日本の幽霊」(池田弥三郎、中公文庫)
「田中貢太郎 日本怪談事典」(田中貢太郎、東雅夫・編、学研M文庫)





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