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拾遺之二十七:紫女

●『西鶴諸国はなし』にこんな話がある。

●筑前国袖の湊という土地は、昔『伊勢物語』でも読まれた式子内親王と藤原定家の本歌に替わり、今は埋もれて民家となって、肴棚が見え渡っていた。
 そこに伊織という男が住んでいた。磯の匂いのする風を嫌い、常精進に身を固め、仏道を有難いものだと思い込み、三十になるまで妻を持たないでいた。世間へは武士であることを示しながらもその実出家する心構えがあり、住んでいるところを離れ、松柏が年月を経て生い茂り深山のようになっている山奥に一間四面の閑居をこしらえて住んでいた。
 その日は定家机にかかり、二十一代の勅撰集を書写するのに明け暮れていた。頃折りしも冬の初め、伊織は定家も愛したという時雨の亭の昔に思いを寄せていると、優しい声がして、
「伊織さま」
 と名を呼ぶ。ここは女の訪ねて来る様な場所ではないので不思議に思い、その様子を覗って見た。すると、腋下(やつくち)を明けてある全身紫色の着物を着て、捌髪を金紙で真ん中に結った、たとえようもない美しさの女がいる。これを見た伊織は長年の志も忘れ、ただ夢見心地に、その美女に心を奪われてしまった。
 するとこの女、袖から内裏羽子板を取り出して、一人で羽根突きをする。
「それは嫁突きというものか」
 と問うと、
「男のいない私を嫁などとは、私に浮名を立たせるおつもりですか」
 と答え、くぐり戸を押し開け入って来た。
「誰であろうと、私に触る者はつねりますよ」
 と言いながらもだらしのない寝姿。自然と後ろ結びの帯が解けて、紅色の腰巻が幽かに覗く。女は細眼になりながら、
「枕というものが欲しいです。それがなければ、情けの深いお方の膝をお借りしたいもの。幸い周りに見ている方はおりませぬ上、只今は子の刻を鐘が知らせる真夜中。まだ夜も深う御座います」
 という。嫌とも云えぬ成り行きになってしまったので、即座に身をもだえ、どのような御方なのかも尋ねずに、若い頃のように契りを交わした。
 早くも夜は明けてしまったので別れを惜しみ、女が「さらば」と云って出て行くのを幻のように悲しく思いながら、次の夜になるのを待ち兼ねていた。
 こうして人には知らせず、夜毎に深く契りを交わしていたが、二十日も経たぬ間に伊織はみるみる痩せていった。自分では知らずにいるのを、懇意にしている道庵という医者が見つけ、伊織を咎めた。脈を診ると、道庵の思った通り、陰虚火動の気色が極まる。
「お前さんは頼りの少ない身の上じゃ。日頃は慎み深くお見受けするが、さては隠し女でも出来たのか」
 と尋ねると伊織は、
「そ、そのようなことは御座いませぬ」
 と言う。道庵が、
「わしに知らせて下さらなんだのは不覚じゃった。今、お前さんの命の程も迫ってきておるが、日頃懇意にしてながら、そのまま見殺しにすれば世間の悪評の的となり迷惑なことじゃ。わしはこれより、ここに出入りするのを辞めさせて頂くこととしよう」
 と言って立ち去ろうとするのを伊織は留め、
「何を隠すことがありましょう」
 と言って、順序立てて事のあらましを語った。すると道庵は暫く考え、言った。
「この女こそ、世間に伝わる『紫女』というものじゃ。これに思い憑かれるとは不幸なこともあったものじゃ。こいつは人の血を吸い、その命を取ったという先例もある。兎に角、この女を斬り殺すのじゃ。そうしなければ禍が止む事はないし、手当する術もない」
 伊織は驚き、愚かな心を取り直して、
「如何にも如何にも、縁も所縁もない美女が通い来るとは恐ろしいものです。是非今夜打ち止めねば」
 そう言って油断することなく待っていると、袖を顔に押し当てながら女が現れ、
「さてもさても、これまでのお情けに引き換え、私をお斬捨てになるとの御心入り、うらめしいことよ」
 と言って近づいてくるのを抜き打ちに斬り付けると、女は其のまま消えかかって逃げていった。その面影を追いかけて行くと、橘山の遥か奥、木深い洞穴へと入っていった。
 その後も心を残し、死後の浅ましい姿となって現れたので、国中の仏道修行者を呼び寄せてこれを弔った。すると影は消え、伊織も危うい命を取り留めることが出来たという。

(参考文献;「新日本古典文学大系 76」(岩波書店))


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