第三十九話:覗く顔
解説:人間の恐怖のツボを悉く抑えたこの怪談は、まさにこの百物語のラインナップに加えるのに相応しいと思い、ここに書き記すことにした。
昔病院だったという或る高等学校でのこと。その夜、一人の女生徒が忘れ物を取りに学校へ入った。
夜の学校はとても恐ろしいところである。明かりといえば窓の外から入ってくる月の光と、非常口の緑色のランプしかなく、忘れ物を取りに来る以外は、絶対に訪れたくない場所である。昼間大勢の生徒や教師でにぎわっている場所なだけに、夜の学校の寂しさは、より一層女生徒には感じられた。
教室に入り、女生徒は机の中から忘れ物を取り出した。
「これで用事は済んだわ」
女生徒はほっとして、教室から出た。すると、
(カタカタカタカタ・・・・・・・・・・・・・・・・・・カタカタカタ)
廊下の暗闇の方から何か車を押すような音が聞こえてきた。そしてその音のする方を見ると、何やら白いものが近づいてくるのが見えた。
「何なの?」
どんどん白い物体の輪郭がはっきりとしてくる。白いものが女生徒の手前五メートル程までに達した時、女生徒の顔から一気に血の気が引いた。
それは看護婦だった。
看護婦は看護婦だが、社会科の教科書でしか見たことのないような、古びた看護服を着ている。場違いであることは言うまでもない。そして両手でワゴンを押して来ていた。先ほどの車の音の正体はこのワゴンだったのである。しかも、ワゴンの上には人が仰向けに寝かされている。
女生徒は「やばい!」と思った。逃げなければ!
思考よりも先に肉体が動いた。女生徒は全速力で走り出した。すると、先ほどのカタカタという音も同時に速くなった。追いかけて来たのだ。
女生徒は女子トイレに逃げ込んだ。そして一番奥の個室に入り、鍵をかけ、息を殺して隠れていた。
(カタカタカタカタカタカタカタカタカタ・・・・・・)
ワゴンを押す音が聞こえてくる。
「これで上手く巻ければいいけど。それにしても何なのよ、あれは」
しかし女生徒の願いは虚しく崩れ去った。トイレの入り口付近で、あのカタカタという音がピタと止まった。そして今度は、
(コツ、コツ、コツ)
という靴の音がトイレの中に入ってきた。
「どうしよう!」
女生徒は震えた。
(ドンドンッ)
あの看護婦がトイレの入り口から一番近い個室のドアを激しくノックしている。
(ぎー、ぎぎぎぎぎぎぎ・・・)
女はドアを開けた。
「いない」
看護婦は一言そうつぶやくと、次のドアの前に立ち、同じようなことをした。
ドアは次々と確認されていった。そして、とうとう女生徒のいる一番奥のドアの前に来た。
「殺されるぅ!」
(ドンドンッ、ドンドンッ、ドンドンッ)
女生徒の目の前にある、木製のドアが激しく揺れる。
(ドンドンッ、ドンドンッ)
女生徒は目をつぶった。もう駄目だ。もうすぐドアが開けられる。しかし、
「・・・・・・・・・・・・・・あれ?」
ドアは一向に開けられない。しかも、足音が遠ざかってゆく。そして、看護婦はトイレの入り口に戻り、先ほどと同じようにワゴンを引いてどこかへ行ってしまった。
「助かった!諦めてくれたんだ」
女生徒はため息をついた。そして何気なく上を見上げた時、
「きゃあああああああああああああ」
そこにはドアの上に手を掛け、女生徒の方を物凄い形相で睨み付けている先ほどの看護婦がいたのであった。
この話には様々な亜種が存在し、偶然丑の刻参りを見つけてしまった少年が追いかけられて公衆便所に逃げ込むバージョンや、舞台が本当の病院であるバージョンがある。
時々「本当にあった」などと銘打ってこの手の話を紹介する本やテレビ番組があるが、おそらくこんなことはないので(もし本当にあったのならば、この話を一体誰が見ていて語ったのかが大きな疑問である。話によっては体験者が助かることがあるが、この場合「恐怖」は大きく殺がれることになる)、ここで死んだ看護婦の霊だの何だのと下手な心霊的解釈を差し挟まず、純粋に「怪談」として楽しむべきである。
【参考:「学校の怪談」(常光徹 著/講談社)】