第六話:鵺
解説:「鵺は深山にすめる化鳥なり。源三位頼政、頭は猿、足手は虎、尾はくちなはのごとき異物を射おとせしに、なく声の鵺に似たればとて、ぬえと名づけしならん」(『今昔画図続百鬼』)
鵺(ヌエ)とは本来鳥のトラツグミを指す。この鳥は日本全国に分布し、夜中不気味な声で鳴くという。昔の日本人はトラツグミの声に何か不吉なものを感じたのだろう。そのためか日本に於いてトラツグミは別名地獄鳥とも呼ばれ、凶鳥として恐れられてきた。また、不思議な物事をたとえる際にもヌエの名は用いられる。
一般に「鵺」として知られている上の画の怪物は、正確にいえば鵺ではない。出典は「平家物語」の中の、三位頼政による化物退治のエピソードからである。
●そもそも源三位頼政と申す人は、摂津守頼光から五代、三川守頼綱の孫、兵庫頭仲正の子である。
保元の乱の折、後白河法皇方について、自ら進んで戦ったものの、それといった賞を貰うことがなかった。又、平治の乱の際にも親類である源氏を捨てて平家側についたものの、十分な恩賞を得ることはなかった。年をとり、老いた後は、述懐の和歌を一首詠むということだけで昇殿を許されていた。
人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月を見るかな
(誰にも知られてない大内山の山守は、木の間に隠れている月ばかりを見ているのだなあ。帝のお姿を拝見することが難しい私のように)
この歌により頼政は昇殿を許され、暫くの間正下四位の位に居たのだが、三位に上ろうと心懸けながらこんな歌を詠んだ。
のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな
(木に登ることの出来ないこの我が身は、ただ木の根元の椎を拾って暮らすしかないのだなあ。昇進する術もない今の私が、ただ四位に留まって世を渡って行くしないように)
するとこの歌が認められ、ついに頼政は三位に昇位したのだった。やがて頼政は出家し、源三位入道と呼ばれ、今年で七十五歳となった。
そんな頼政であるが、その一生の中で世間にその名を知らしめた一つの出来事があった。
それは近衛院が御在位の時、仁平の頃のことだった。
その頃、帝が夜な夜な御気を失われるということがあった。霊験あらたかな高僧・貴僧に命じて大法、秘法を執り行ったものの、それといった効果はなかった。
帝が御患いになるのは丑の刻ばかりであった。その時間になると、東三条の森の方から一塊の黒雲が立ち来て、御殿の上空を蔽う。丁度その時に帝は怯えなさるのである。
このことがあって、公卿たちの間で話し合いが行われた。その話し合いの中で去る寛治、堀河天皇御在位の頃の話が出た。
その頃、今回のように帝が怯えられることがあった。その時の将軍であった義家朝臣は紫宸殿にいたのだが、御患いの刻限になると弓を三度引き鳴らし、声高々に、
「前陸奥守義家」
と名乗った。人々は皆身の毛もよだつ思いがしたが、その後帝のご病気は全快されたということであった。
そういうわけでこの先例を見習い、武士に警戒するように云い付け、源平両家の兵士の中から化け物退治をする者を選定したところ、頼政が選び出された。その時の頼政は、まだ兵庫頭と名乗っていた。頼政はこう申した。
「昔から皇族の御殿に武士を置くということは、謀反人を退け、帝の御勅命に背くものを滅ぼす為です。目に見えない妖怪変化を退治せよとの御勅命など、未だかつて承り実行されたことは御座いません」
そういいながらも、これは天皇のご命令であったので、頼政は召されたのに従い参内した。
頼政は頼りにしている者達のうち、遠江国の住人である井早太にほろの風切り羽のついた矢を背負わせ、彼一人だけを連れて来た。自分は二重の狩衣に、山鳥の尾を付けたとがり矢を二筋、しげどうの弓と一緒に持って、南殿に参上した。その時、頼政が二本の矢を持っていたのは、左少弁だった雅頼卿が、
「変化のものを退治することの出来る者は頼政だけで御座います」
と行って頼政を選んだことから、一本目の矢で妖怪を射損じた場合に、二本目で自分を選んだ責のある雅頼の首の骨を射るという意味であった。
やがて帝が御患い始める時間になると、日頃から人々が言っているように、東三条の森の方から一塊の黒雲が立ち来て、御殿の上にたなびいた。頼政がきっと見上げると、雲の上に怪しいものの姿がある。もしこれを射損じたならば、頼政はこの世に留まろうとは思っていなかった。頼政は矢を取る。そして弓に番い、
「南無八幡大菩薩」
と心の中で祈念してから、弦を引いてひゅっと放った。手ごたえを感じて矢が何かに当たった。
「仕留めたぞ」
頼政は矢が命中した歓喜の声を上げた。そこに井早太がすっと近寄り、落ちるところを取り押さえ、続けざまに刀で九回刺してそれを裂いた。その時上下から各々火を灯して、これをよくよく御覧になると、頭は猿、胴体は狸、尾は大蛇、手足が虎の姿をした化物だった。その鳴き声は鵺(トラツグミ)によく似ていた。その様は、恐ろしいという言葉で言い表せるものではなかった。
帝は御感動のあまり、師子王という御剣を頼政にお与えになった。宇治の左大臣がこれを受け取り、また頼政にお与えなさろうとして、御殿の前の階段を半ばまで降りられたところ、時期は卯月十日頃、空中を郭公(ほととぎす)がニ、三声鳴いて通った。その時左大臣はこんな歌を詠まれた。
ほととぎす名をも雲井にあぐるかな
(ほととぎすは、丁度御前が宮中にその名を挙げたように、名前さえも空に上げたことだ)
すると頼政は右膝をついて、左の袖を広げ、月を僅かに横目に見ながら、
弓はり月のいるにまかせて
(弓を射るのに身を任せたまでです)
と申し、御剣を頂いて御殿を後にした。
「弓矢を取っても比類なき腕であるのに、それだけではなく歌の道にもにも優れているのだなあ」
と言って、公卿も帝も感動された。そして例の化物の死体は、うつほ舟に入れて流したと言われている。
去る応保の頃、二条天皇の御在位の時、鵺という化鳥が禁中で啼いて、しばしば帝を悩ますことがあった。
先の例により、再び頼政が召された。
時は皐月二十日頃の夜のこと。鵺はただ一声鳴いて、二度鳴く事はなかった。眼を開いても暗くて見えない闇夜であり、化鳥の姿形も見えないので、頼政は的を何処にしたら良いのか決めかねていた。
考えを廻らせた後、まず大鏑(音を発する矢)を取って番い、鵺の声のする内裏の上に射上げた。すると鵺が鏑の音に驚いて虚空に僅かに鳴き声を立てた。そこで二本目の矢として小鏑を取って番い、ひいふっと射切り、鵺を鏑と並べて落とした。
禁中はざわめき合い、帝の御感動は並々ではなかった。帝は頼政に御衣を肩へかけてお与えになった。その時は大炊御門の右大臣公能公がこれを受け取りついだが、頼政へとお与えなさる時、
「昔、楚の国の養由基は雲の外の雁を射た。今、ここにいる頼政は、雨の中で鵺を射たのだ」
と、大層感動された。そして、
五月やみ名をあらはせるこよひかな
(五月の闇の中、頼政がその名をあらわした今宵だ)
と読まれたので、頼政はそれに応えて、
たそかれ時もすぎぬとおもふに
(黄昏時が過ぎ、誰が誰だかはっきりしない闇夜となったので、その名をあらわしたのです)
と申し、御衣を肩にかけて退出した。
その後伊豆国を頂き、その子息仲綱を受領とし、自分は三位として丹波の五カ庄、若狭のとう宮河を治め、そのまま何事もなく過ごせるはずであった。しかし無意味な謀反を起したために、宮を失い、自分の身を滅ぼしてしまった。何とも嘆かわしいことである。
●平安時代、夜な夜な丑の刻になると不気味な声で鳴き、近衛天皇を困らせたという怪物を、源三位頼政が射落とした。化物はその姿顔は猿に似て、胴は狸、足は虎、尻尾が蛇、そして「鵺のような声で鳴いた」という。しかし、「鵺のような声で鳴いた」というだけであって、この怪物そのものが鵺であるとは言えないのだ。
ただし頼政はその後二条天皇の頃、皇居にて鵺という怪鳥を退治しているのである。
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※『今昔画図続百鬼』では、この怪物の名を空偏に鳥と書いて「ヌエ」と読ませているが、この文字が使えない為、ここでの表記は全て「鵺」に統一した。