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第五話:崇徳院

解説:「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の  われても末にあわむとぞ思ふ」


上の歌は「小倉百人一首」のうちの一首である。なかなかロマンチックな歌ではあるが、この歌の作者こそが今回解説する大魔王・崇徳院である。

崇徳院こと顕仁は鳥羽天皇と中宮璋子との間に生まれた皇子。しかし、実は中宮と白河上皇との間に出来た子供だという噂があった。実際、白河上皇は顕仁をこの上なく可愛がったのである。
しかし白河上皇の死後、顕仁の父である鳥羽は、白河上皇の力によって天皇に即位した崇徳を天皇の座から引き離し、代わりに體仁(近衛天皇)を天皇にしてしまう。そして近衛が亡くなると、今度は崇徳の子供の重仁ではなく、崇徳の弟である雅仁(後白河天皇)を天皇にした。
鳥羽の崇徳に対する嫌がらせは、鳥羽上皇の死後も続いた。崇徳がその遺体に対面することを遺言で禁じたのである。とうとう崇徳は怒り、1156年、保元の乱が起こった。

崇徳は負け、讃岐へ流された。都へ帰る望みを無くした崇徳は、せめて後世のためにと五部の大乗経を写し都へ送ったが、少納言信西の計らいで経は送り返されてしまう。憎しみと怒りに焼かれた崇徳は経を魔道に回向し、自らの指先を食いちぎり血で願文を書いて、それを海に沈めた。
崇徳の呪いは成就した。その後、一族の中で唯一後白河の味方をした源義朝は平清盛に討たれ、経文を撥ね付けた信西は六条河原でさらし首にされたのである。崇徳は室に閉じこもり、髪も爪も伸び放題の、生きながら天狗のような姿になり、1164年に亡くなった。
しかし崇徳の呪いはこの世に残った。崇徳は三百もの眷属を抱える大魔王となり、様々な祟りを起こしていった。これを恐れた高倉天皇は、それまで号を与えられず、「讃岐院」と呼ばれていた崇徳に、「崇徳院」という号を付けた。

魔王となった崇徳院は様々な文学作品に登場する。例えばかの三島由紀夫が愛した「雨月物語」(上田秋成)の一篇、「白峯」では、西行法師と崇徳院との議論が繰り広げられる。また、曲亭馬琴の「椿説弓張月」でも、主人公の為朝に力を貸すほどの、頼もしい大魔王の姿が描かれている。


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