拾遺之十:かみをくれ

●この小学校の警備員を二年ほど勤めているH氏は、今日も真夜中の校内を懐中電灯一つ持って、歩き回っていた。
満月と懐中電灯が校内を照らす。
夜の教室、夜の体育館、夜の音楽室、夜の理科室、そして真夜中のトイレ。五十を越えた今でもそれは十分に怖い。H氏には大学生の娘がいるが、彼女が小学生だった時には、どこでそんな話を仕入れてきたのか、度々夜の学校にまつわる怪談を聞かせてくれた。
ノックの音に答える花子さん、グラウンドを走る二ノ宮金次郎像、ホルマリンの中で啼く蛙、血滴の奏でるグランドピアノ、徘徊する人体模型、ワゴンを押して生徒を追いかける看護婦の霊、瞬きするモナリザ、などなど数え上げたらきりがない。そんな話の数々を今でも憶えている自分が一番恐ろしいかも知れない、などとH氏は一人で思っていた。
季節は夏休み突入直前の七月である。ワイシャツの背中部分に滲みが出来ているところからも分かるように、彼の身体は汗まみれだ。警備会社から借りた帽子の中も濡れている。H氏はそれを拭い取るかのように帽子を頭に押し付け、左右に動かした。そしてそれを頭から取ると、廊下にあった椅子の上に置いた。
「あー、暑い。こんな夜なら幽霊の一匹くらい出てくれた方がいいなあ。あれ、まてよ、幽霊って一匹二匹って数えるもんなのか?」
K氏はどうしようもない独り言を呟きながら、暗い教室の中を懐中電灯で照らした。
「よし、異常なしだ。次行くか」
そうやって、次々と教室を巡回していった。
「次はトイレだ」
H氏は、普段一二年生が使用しているトイレのドアを開けた。ドアは小さな造りになっていて軽く開く。
教室でやったのと同じようにして、H氏はトイレの中を確認する。
「異常なし」
H氏が次の部屋へ行こうとする。その時、

「かみをくれ〜」

トイレの一番奥の個室から声がした。
「え、こんな真夜中に誰かいるのか!?」
K氏の背筋は一瞬ひやりとした。まさか本当に幽霊か。だとしたら・・・いや、幽霊なんて居るわけがない。この世に不思議なことなど何もないのだ、関口く・・・ゴホンッ。
次の瞬間には、H氏は声のする個室の前に立っていた。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
かみをくれ〜
「生徒さんですか?」
かみをくれ〜
「分かりました、トイレットペーパーが切れてしまったのですね。こんな時間までかかるということは、さぞかし熾烈な戦いだったのでしょう」
かみをくれ〜
「冗談を言ってすみませんでした。御気に障ったのなら誤ります」
かみをくれ〜
H氏は窓のところに置いてあったトイレットペーパーを手に取ると、個室の扉に手をかけた。戸は難なく開いた。K氏は少しだけ戸を開けると、そこにトイレットペーパーを持った腕を差し入れた。
「トイレットペーパーです、どうぞ」
しかし、どうしたわけか、個室の中の人物はそれを受け取ろうとはしない。
「あれ、どうしたんです?」
・・・みじゃない・・・
「何ですって?」
そのかみじゃない
「え、だってトイレットペーパーが欲しかったんじゃないのですか?」
H氏が手を引っ込めようとしたその時、


「この紙じゃない!お前の髪だあぁぁぁぁ!」


戸の隙間から青白く、細長い腕が現れたかと思うと、物凄いスピードでH氏の頭めがけて伸びてきた。
恐怖におののくH氏の、汗にまみれた見事なハゲ頭は、懐中電灯の光を受けて、今宵の満月のように美しく光り輝いていた。


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