拾遺之三十六:蛸の怪

●アメリカの小説家・H.P.ラヴクラフトは、自身の作品の中で「クトゥルー(Cthulhu)」などという怪物を登場させている。これはタコの頭部に、鋭い爪、鱗のある胴体に大きな羽を持つという、まるでその姿鵺の様にごちゃごちゃした太古の邪神だが、このクトゥルーの元が、果たして魚介類が苦手だったというラヴクラフトの恐怖からだったのかどうかは良く分からない。
日本ではどうだろうか。タコはそのユーモラスな外見上、怪異とは程遠い存在のような印象を受けるが、タコにまつわる怪談も、他の動物同様存在する。例えば、鰻同様、引き上げた水死体にびっしりとくっ付いていたなどというのは良く聞かれる話だ。
ここでは『宿直草』所収の話を紹介する。怪談というよりは奇談だが、蛸の変わった行動の様を覗える話だ。


●或る席で、四五人の者が物語をしていると、一人がこんなことを言った。
「蛸(たこ)は恐ろしいものだ。津の国にある御影の浜で、罪人を磔にしたことがあったが、夜毎に一人の坊主があらわれては、番をすると言う。そこでその里の或る浪人が浜に行き、様子を覗ったところ、坊主の正体は蛸だった。罪人を喰らっておったのだ」
すると鍋島家に仕える福地某という者がこんな話を語った。
「確かにそんなこともあろう。私は昔、蛸を好き好んで食べていた。ある時海に舟を出した折、名残の波が立つ場所へ舟を泊めた。すると三尺ほどの蛇がおり、その体の半分を海へ浸からせていたのだが、それがいつの間にか手長蛸になって海の中へ消えていったのだ。それからは蛸を食っておらぬ」
また見るからに色黒く、潮風に慣れた海辺の者がその席にいたが、
「いやいや、人が蛸になるなどということはありませぬ。また今のお話ですが、蛇は蛸を釣るために尾を海中に垂らし、蛸は蛇を取るために海上に上がってきたのです。先ほどのお話のような小さい蛇は蛸に取られ、また大きな蛇は蛸を取るのです。これは竜と虎の争いのようだ」
と賢そうな風で語った。
すると、片隅の方で菓子を齧っていた法師がこれをききながら頷き、こんなことを語った。

事実その通りです。私は元々丹後に居りましたが、そこで青侍三、四人と舟遊びに出かけたことが御座います。
沖の遠くには出ず、遠浅のところで舟を漕き、葦の穂が茂る洲崎(浜の突き出たところ)に出ると、色好い酒気に皆ひどく酔い、諷謡を乱れ舞う始末。干潟の千鳥のように足取りの覚束無いものもあり、舟尾で釣りをし、水に濡れた竿の雫に自分も濡れて楽しむものもあります。また名月の詩を誦し、窈窕の章を歌う者の楽しむ様は、あの蘇軾の楽しみもこれに優るか分からないといった有様でした。
やがて日も沈み出したので、
「もう日が暮れてきたぞ。月の舟を漕ぐ桂の櫂も蘭の舵もここにはないだろう。余念も浪が打ち消した。さて帰るぞ、舟を出せ」
というと、一人の青侍が言いました。
「夕暮れ時の過ぎるまでも、ずっと漕ぎ進みたいものだ。あそこに見えるのは、この浦でも比類のない美景だぞ。器の酒を残すのは本意ではなし、さあさあ舟を遣るのだ」
男の言う方を見ると、人が作り出すことの出来ぬほどに美しい岬が御座います。磯伝いに漕いでゆくと、岸辺の草は潮に馴れ、岩間の苔は潮風に向かって靡いているのが見えました。そして、人に掃かれていない多くの落ち葉で地面を蔽い、高さ三間、太さ二尺ほどになる松の木が立っていました。梢は海を招くように、根は山を刺すように着いております。また、雌松の葉にも興味を惹かれたので、
「あの松陰で休もう」
と言って、我々は漕いでゆきました。すると松から三十間というところで、一人の者がこんなことを申すのです。
「松の根は赤いというのに、それでは側にあるあの黒いものは何だ?」
「さあな、分からぬ」
と言う間にも、舟はどんどん松へと近づき、その間十五六間にもなりました。そこの時、水飛沫が飛び、海の中から薄紫色の、五尺ばかりになるものが現われました。それは梢の下がった松の枝に掛かり、例の黒いものに取り付きました。
やがて舟を泊め、
「何だろう」
と私が言うと、それを見た船頭が、
「聞いたことがあるぞ。こんな天気の好い日には、蛇が出て蛸を釣るということを。上の黒いのは蛇、下の紫は蛸だろうか」
といいます。
皆そうか、と思い気をつけて見ていると、丈三間、太さ一尺ほどの烏蛇が、例のあの松の水際から一間ほどのところにある枝に絡みつき、尾を二、三尺水につけていました。
「これはこれは良い見物だ」
と思いながら見ていると、蛸はまたその腕の一本を掛けました。それからすぐに、打ち掛け打ち掛け、全部で四本の触手を使って、松の枝を下へ下へと引き込もうとします。蛇の方はというと、上へ上へと引き上げます。蛇と蛸の互いの力に、流石の松も、まるで綱で引いているかのように揺らめきました。
舟中では、皆固唾を呑んで見守っておりました。
「どうしても下の方が力が弱い。蛸が釣られるだろう」
そういった時、思いがけずも運が尽きたのは蛇の方でした。蛇の纏っていた松の枝が元から折れ、蛇は木とともに海中へと没したのです。
「何と!」
思わず感嘆の声が漏れました。そうして、しばらくのうちは松も浮きつ沈みつしていたのですが、とうとう蛇は上がってこず、程無くして枝ばかりが浮き上がってきたのでした。


●私の聞いた蛸の奇行に、蛸が畑に入ってきて、大根や芋を引き抜くというものがある。真偽の程は分からない。故にそれらの野菜を一体どうするのかは、全くもって不明である。


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