■仏法僧
●この国の安寧は久しく続き、民は生業を楽しむあまりに春は花の下に休息し、秋は錦のように色鮮やかな紅葉の林を訪れる。筑紫路も知らねばならぬと船旅をする人々の心に、富士筑波の嶺々が留まるのも、何処となく興味深いことである。
伊勢の相可という郷に拝志(はやし)という氏を持つ人がいた。
早くして家を次の世代に譲り、不幸があった訳でもないのに剃髪し、名を夢然と改めた。夢然は元々身体に病一つなく、あちらこちらへ旅して寝泊りするのを老いてからの愉しみとしていた。末の息子である作之治という者が夢然の性質が頑固なのを心配し、京の人の穏やかさを見せようと思い立ち、一月程二条の別荘へ逗留してから、三月の末に吉野の奥の桜の花を見物して、よく知っている寺院に七日程泊まった。そのついでに、
「まだ高野山を見ていない。さあ、行こう」
と言って、夏の始めに青葉の茂みをかき分けながら、天の川というところを越えて、摩尼の御山と呼ばれる高野山に行き着いた。
ところが山道の険しさに悩まされ、思いもよらぬことに日が暮れてしまった。二人は壇場、諸堂霊廟を残すところなく参拝してから寺の前に来て、
「ここに泊めて頂きたいのですが」
と言ったものの、誰もそれに答えるものはない。
するとそこを通りかかった者がある。その人に御山の掟を尋ねてみると、
「寺院僧坊に伝(つて)のない者は、麓に下りて夜を明かすのです。この山では旅人に一夜の宿を貸すことはありませぬ」
と言う。どうしたことか、さすがにこの老身が険しい山道を上って来た上に、その事を聞かされたので、ひどく落胆してしまった。
すると作之治が言う。
「日も暮れた上に足も痛むのに、どうやって長い道を下れば良いのでしょう。若い我が身は草の上で寝ても構いませぬが、父上がお病みになられたら辛いことです」
夢然も言った。
「旅ではこのようなことを情趣などと言うのじゃ。今夜足に怪我を負い、倦み疲れて山を下ったとしても、そこは我らの故郷ではない。また明日もどんなことがあるか分からぬものじゃ。この山は日本第一の霊場であり、弘法大師の徳は語っても語りつくせぬほど広大なものじゃ。わざわざ此処に来て一晩中法事を行い、死後の暮らしを願い申し上げるはずのところ、今宵はそれに丁度良い。霊廟のところで一晩中、読経し申し上げようではないか」
二人は杉の下に続く暗い道を歩き続け、霊廟の前にある燈籠堂の簀子縁に上り、雨具を敷いて座を設けると、静かに念仏を唱えながらも、夜の更けゆくのを寂しく感じていた。
辺り五十町四方には景観を損ねるような林が無く、小石を掃って綺麗にしており、さながら霊地の趣がある。しかしながら、ここは寺院から程遠く、陀羅尼を誦す声や鈴錫を鳴らす音も聞こえない。木立は雲よりも上に伸びて生い茂り、道に境を成す水の音はほそぼそと澄み渡って物悲しい。眠ることが出来ず、夢然は言った。
「そもそも弘法大師の霊徳は、土石草木にも霊を与え、八百年ほど経た今でこそ益々あらたかであり、益々尊いものである。大師の功績や足跡は数多いが、この山こそ第一の霊場である。昔大師の御存命の頃、遠い唐土に渡られ、そして其の国で御感心された事があった。そこで『この三鈷(さんこ。仏具の一種)の留まった場所を我が教えを開く霊地とする』と仰り、上空へと三鈷を投げられたが、それがこの山に留まったのじゃ。壇場の御前にある三鈷の松こそ、その三鈷が落ち留まった場所だと聞いておる。この山の草木泉石の中に霊がないものはないのだとも。今夜、ここに一夜の宿をお借りすることとなったのも、現世以前からの善い縁じゃ。お前も若いからと云って、信心を怠ることの無いようにするのじゃぞ」
そう小声で語ったのも辺りに澄んで心細い。
そんな時、御霊廟の後ろの林からだろうか、
「ぶっぱん、ぶっぱん」
と啼く鳥の声が山彦となって近くから聞こえてきた。夢然は目の覚めるような心地がして言う。
「おお、珍しい。あの啼いておる鳥は仏法僧というものじゃ。予てよりこの山に棲んでおることは聞いておったが、未だその声を聞いたという者はなかった。今夜ここで夜を明かすということは、罪を滅して善をなすことの兆しであろう。
「またあの鳥は清浄の地を選んで棲むという。上野の国迦葉山(かしょうざん)、下野の国二荒山(ふたらさん)、山城の国醍醐の峰、河内の杵長山(しながさん)と、仏法僧の棲む山は数多いが、とりわけこの山に棲んでいるということは、大師の詠まれた詩偈(しげ)によって、世の中の人も良く知っていることである。
寒林独坐草堂暁 三宝之声聞一鳥
一鳥有声人有心 性心雲水倶了了
(寒林の草堂に一人座って夜明けを迎えると、仏、法、僧の三宝の声を仏法僧という名の一羽の鳥の鳴声として聞いた。鳥に声があり、それを聞く人にも心がある。鳥の声も人の心も、雲水と入混じって一つの悟りの境地に至る)
「又、古い歌に、
松の尾の峰静なる曙にあふぎて聞けば仏法僧啼
(松尾山の峰が静かな夜明けに空を見上げて耳をすませば、仏法僧の鳴声が聞こえてくる)
「とある。昔、最福寺の延朗法師は世に比類のない法華者であったが、松尾山の御神はこの鳥を法師の側へ仕えさせていらしたという言い伝えがあるので、松尾山に仏法僧が棲んでいたというのも知られたことである。今夜、不思議にも一羽の鳥の声があった。ここにいながらにして、これに感動せぬことがあろうものか」
言い終えると、常の趣味としている俳諧の十七語を、しばらく考えてから口に出した。
鳥の声も秘密の山の茂みかな
(神秘的な鳥の声が、真言宗の霊山である高野の山の茂みから聞こえてくることだ)
旅用に持ってきた硯を取り出し、御灯の光の下で句を書付ける。もう一声、鳥の声があったら良いのに、と思いながら耳を傾けていると、思いがけぬことに、遠くの寺院の方から先払いの声が厳しくも聞こえてきて、それは次第にこちらへと近づいてきた。
「こんな夜中にどなたが参詣なさるというのか」
と怪しみながらも恐ろしく感じられ、親子で顔を見合わせながら息を潜め、誰かが来る方をじっと見つめていた。するとまもなく先払いの若侍が現れ、橋板を荒々しく踏んでこちらへやって来た。
驚いて燈籠堂の右側に隠れていると、武士はそれを素早く見つけ、
「何者か、殿がお通りになるのだぞ、すぐに降りてくるのだ」
と言う。親子はあわただしく簀子縁から降りると、地面に平伏してうずくまった。程なくして多くの足音が聞こえてきたが、その中から沓音を高く響かせて、烏帽子を被り、直衣を召された貴人が燈籠堂に上られた。すると従者の武士達が四五人ほど、その左右に座を設けた。
例の貴人が人々に向かい、
「誰誰は何故来ぬのか」
と仰ると、従者達は、
「まもなく参ることでしょう」
と申し上げる。すると又一群の足音がして、威儀のある武士や、頭を丸めた入道が一緒にやって来た。武士達が一礼申し上げて堂に昇ると、貴人はたった今来た武士に向かって、
「常陸は何故遅く来たのだ」
とお尋ねになった。その武士は答え申し上げた。
「白江熊谷の両士が殿に大御酒を献上しようなどと云って、実にこまめに用意をしておりました故、私も新鮮な魚を一種差し上げようと存じまして、その為に殿の御供に遅れたので御座います」
早々に酒や肴を連ねて進上すると、貴人は、
「万作、酌をせよ」
と仰った。恐れ慎みつつ、顔貌の美しい若侍が膝行しながら貴人に近づき、瓶子を捧げる。あちらこちらに杯を巡らせ、随分楽しそうな様子である。
貴人は再び仰った。
「この頃は紹巴(じょうは)の話を聞かぬ。紹巴を連れて参れ」
すると従者が呼び継いだと見えて、夢然がうずくまっていた後ろの方から、平め顔の、目鼻のくっきりとした大法師が現れ、法衣を整えて座の端に参った。貴人が古い物語などをあれこれとお尋ねになると、法師はそれに対して詳しく答え申し上げた。それにひどく感心された貴人は、
「この者に褒美をとらせよ」
と仰った。
一人の武士がその法師に尋ねる。
「この山は大徳の僧が開山されたと云われ、土石草木も霊力のないものはないと聞く。ところが、玉川の流れには毒があるという。人がそれを飲めば忽ち倒れてしまうというので、弘法大師が、
わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水
(毒があるということを忘れても、旅人は汲んだであろうか。高野の奥の玉川の水を)
「と詠まれたというのを聞いたことがある。大師は何故、この毒のある流れを涸らしては下さらなかったのか。この気がかりな事を、そなたは如何にお考えか」
法師は笑みを含ませながら云った。
「この歌は風雅集に選ばれ、収められたものである。その端詞にこう断っておる。つまり、『高野の奥の寺院へ参詣する道に玉川という川がある。この川の上流には毒虫が多いので、この川の水を飲んではいけないということを示した後に詠みました』と。これはあなたも御記憶の通りじゃ。しかしながら、あなたの御疑いになられたことも又間違ってはおらぬ。大師は神通力を自在に操り、人の目には見えぬ神を使役して道のないところに道を啓かれた。また岩を削ることは土を掘るよりも容易にされ、大蛇を封印し化鳥を従わせられた。これら世の人が敬うほどの大師の功績を鑑みれば、この歌の詞書こそ正しくはないと云える。
「本来、この玉川という川は諸国にあり、そのいずれを詠んだ歌もその流れの清らかさを褒め称えたものじゃ。これを思えば、ここの玉川も毒のある流れではなく、この歌の意味も、このような名高い川がこの山にあるのを参詣の人は忘れていながらも、その流れの清らかさを愛でて手で掬ったのだろう、と言う事をお詠みになられたのじゃ。ところが後世の人の、毒があるという間違った説からこの詞書が作られたのだと思われる。
「更に深く疑えば、この歌の調子は平安初期の言葉つきではない。大体この国の古い言葉では、玉蔓玉簾珠衣の類はその形を誉め、また清らかな様を誉める言葉であるので、清水も玉水、玉の井、玉川と誉めるのである。毒のある流れなどに、どうして玉という言葉を冠することがあろうか。熱心に仏を崇める人で、歌の真意に明るくない者は、これくらいの間違いを幾らで犯すものじゃ。あなたは歌を詠まれる訳でもないのに、この歌の意を御疑いになられた。これは普段からの心がけがあるということじゃ」
そう云って大層感心する。貴人をはじめ他の人々も、この道理を頻りにお褒めになった。
すると御堂の後ろの方から、
「ぶっぱん、ぶっぱん」
と近くに啼声が聞こえてくる。貴人は杯をお上げになり、
「例の鳥は久しく鳴かなかったが、今あの鳥の声が聞こえた。今夜の酒宴に興を添えたぞ。紹巴はどう思うか」
と仰る。法師は慎んで言った。
「私の短句は、殿の御耳にも古臭いものとなったことでしょう。実はここに旅人が夜明かししておりましたが、今の世の俳諧を詠んでおります。殿には珍しいもので御座いましょうから、二人を召してお聞き下さい」
貴人がそれ、呼んで来い、と仰ると、若い侍が夢然の方に向かって、
「殿がお呼びだ。近くへ参れ」
と言う。夢か現かも分からず、ただ恐ろしく思いながら貴人の前へ這い出た。
法師は夢然に向かい、
「先ほど詠んだ歌を殿の前で申すのだ」
と言う。夢然はおそるおそる言った。
「何を申したことでしょう、私は覚えておりませぬ。どうか御赦し下され」
すると法師が再び、
「秘密の山と申さなかったか。殿下がお尋ねになっているのだ、早う申せ」
と言った。夢然はますます恐ろしく思い、云った。
「殿下と仰る方はどなた様で在らせられるのでしょう、また何故にこのような山奥で夜宴をされているのでしょうか。ますます気がかりでなりませぬ」
すると、法師は答えて言った。
「我らが殿下と呼び申し上げる御方は、関白秀次公に在らせられる。その他の者は、木村常陸、雀部淡路(ささべあわじ)、白江備後、熊谷大膳、粟野杢、日比野下野、山口少雲、丸毛不心、隆西入道、山本主殿(とのも)、山田三十郎、不破万作、そして斯く云う某は紹巴法橋(じょうはほっきょう)である。おぬし等は不思議にも殿にお目見えしたものだ。先ほどの言葉、急いで申し上げよ」
もし夢然の頭に髪があれば、それも太るほどに物凄く、肝魂も虚に帰るような心地である。夢然は震えながらも頭陀袋から綺麗な紙を取り出すと、しどろもどろに句を書き付けて差し出した。それを山本主殿が受け取り、声高らかに詠み上げた。
鳥の声も秘密の山の茂みかな
貴人はお聞きになり、
「上手なものよ。誰かこの句に末句をつけるのだ」
と仰った。すると山田三十郎が席を立ち、
「私がやってみましょう」
と云う。そして暫く悩んだ末、こんな句をつけた。
芥子たき明すみじか夜の牀
(芥子を炊きながら明かす、短い夏の夜の床)
「どうだろうか」
と紹巴に見せると、
「よくぞお考えになったものだ」
と云って御前に差し出した。それを殿が御覧になり、
「悪くはないぞ」
と御興じになられ、再び杯を上げて人々に廻された。
すると突然、淡路という人の顔色が変わり、
「もう修羅の時刻ではないか。阿修羅達が御迎えに来るようです。お立ち下さい」
と言うと、一座の人々の顔は忽ち血を注いだように赤くなり、
「さて、今夜も石田増田に一泡吹かせてやろうではないか」
と勇んで立ち騒いだ。秀次公は木村常陸に向われ、
「関係の無い奴らに我が姿を見せてしまった。奴ら二人も修羅道へ連れてゆけ」
と命ぜられた。ところが老臣達がそれを遮って、声を揃えて云った。
「彼らはまだ命の尽きぬ者共で御座います。どうか以前のような悪業はなさらず」
すると途端に、その言葉も、人々の姿も、遠くの空へ行くかのように掻き消えてしまった。
親子は暫くの間気を失っていたが、夜の明けゆく空の下、落ちてきた朝露の冷たさに気を取り戻した。しかしながら、未だ晴れることのない恐ろしさに弘法大師の名をせわしく唱えながら、次第に日が昇ってきたのを見計らって、急いで山を降りると、京へ帰って薬や鍼で保養をなした。
或る日、夢然が三条の橋を通り過ぎる時、悪逆塚のことを思い出して、不意にその寺の方を見たのであった。
「白昼でありながら、物凄い様子であった」
と京の人に語ったのを、そのまま書き記した。
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