■菊花の約


●青青とした春の柳は、家の庭に植えてはならぬ。親交は軽薄な人と結んではならぬ。楊柳が茂りやすくも、吹きつける秋の初風には耐えられぬ事と同様、軽薄な人と親交を結ぶのは容易だが、それはまた途絶えるのも早いのである。楊柳は毎年春になれば葉を茂らすが、軽薄な人はそれきり訪れては来ぬものだ。


 播磨の国は加古という宿場町に、丈部左門(はせべさもん)という学者がいた。強いて金銭を欲することのない、貧しくも清らかな生活を受け入れ、友とする書物の他は、身の回りの物を揃えておくのを好まなかった。
左門には老いた母親がいたが、孟子の母にも劣らぬ節操の持ち主であり、常日頃より紡績の仕事をして、左門の志学を支えていた。また、左門の妹はというと、同じ里の佐用氏へと嫁いだ。この佐用の家は大変富み栄えていたが、丈部母子の賢明なのを慕い、その娘を嫁に迎えて丈部の親戚となり、何かにつけて丈部の家に贈り物をしてきた。ところが左門は、
「食べてゆくのに、人の面倒になるわけには参りませぬ」
 と言って、それらを決して受け取ろうとはしなかった。

 或る日、左門は同じ里の某氏の元を訪れ、古今の物語をしていた。すると、丁度話が面白くなってきた時、壁を隔てて何とも悲痛なうめき声が聞こえてきた。左門が主人に尋ねると、
「あれはここから西にある国の人らしいのですが、伴侶の者に遅れた為に、一夜の宿を求めて来たのです。武家の風があったので、卑しい者ではないと思いお泊めしたものの、その夜ひどい熱が出て、起き伏しも自分では出来ぬ程でした。気の毒に思う儘、三、四日が経ちましたが、何処の人なのかも分からず、私も思いがけぬ過ちを仕出かしてしまったものだと、困り果てているところです」
 と言う。それを聞いた左門は言った。
「悲しい話です。ご主人が心配されるのも尤もなことですが、病気で苦しんでおられるあの方は、あてもない旅先の土地でお病みになり、とりわけ苦しい思いをしておられることでしょう。あの方の御様子を見せて頂きたいのですが」
 ところが、主人はそれを止めた。
「なりませぬ。流行病は人を死なせるものだと言います。家の使用人達にも決してあの部屋へは行かせないのです。あそこへ立ち寄り、あなたの御身を損なうことがあってはなりませぬ」
 すると左門は笑いながら、
「人の生死は天命により定まっており、その他の事でどうこうなるものではありませぬ。一体どんな病が人にうつるというのでしょうか。病が人に伝わるというのは愚俗な者共の言うことであり、私達は信じておりませぬ」
 と言って戸を押開き、部屋に入ってその人を見た。すると主の話に違わず、病人は普通の人ではない様子であった。しかしながら病は重いようで、顔は黄変し、肌は黒ずんで痩せており、古い蒲団の上で悶えながら臥せっていた。病人は親しみ深そうに左門を見て、「お湯を一杯お恵み頂きたい」と言う。
 左門は病人の近くへと寄って、こう言った。
「どうか心配なさらず。私が必ずお救い致しましょう」
 それから主人と話し合って薬を選び、自分で処方を考え、それを煮て与えつつ、更に御粥を勧めて、まるで兄弟のように病人を看病した。それは見捨てては置けぬという様子だった。
 件の武士はというと、左門の手厚い憐れみに涙を流しながら、
「これほどまでに、この頼る当ての無い旅の者に親切にして下さるとは。私が死んでも、その御心に報い申し上げます」
 と言う。左門はそれを諫めて、
「左様な力の無いことを仰らず。一般に、疫病は或る日数まで続きます。それを過ぎれば生命を損なうことなどありませぬ。私も毎日伺い、あなたの看病をさせて頂く事としましょう」
 と真剣に約束し、心を込めて病人を助けているうちに、病は少しずつ軽くなり、気分も爽やかなものとなって来た。武士は家の主人にも丁寧に、言葉を尽くして礼を言い、左門の隠れた徳を敬った。そして左門の生業を訊ねた後、武士は自分の身の上を語り始めた。
「私は出雲の国松江の郷の、赤穴宗右衛門という者です。僅かばかり兵学書の内容に明るかったということで、富田は月山城主、塩冶掃部介(えんやかもんのすけ)殿が、拙者を師として兵学を学ばれていました。ところが、私が近江の佐々木氏綱の元に秘密の使者として送られ、氏綱の館に滞在している間に、前代の月山城主である尼子経久(あまこつねひさ)が山中党と示し合わせ、大晦日の夜、急襲して城を乗っ取ってしまったのです。その時、掃部介殿も討ち死にされました。本来、雲州は佐々木の治めている国であり、塩冶殿はその守護代なので、
「『三沢、三刀屋(みとや)に協力して、経久を倒して頂きたい』
「と勧めました。しかし氏綱は外面勇ましくも、その実怯えた愚将であったので、経久討伐を果すことはありませんでした。それどころか私を近江に留め、帰そうとしなかったのです。つまらぬ場所に永くは居られまいと思った私は、密かに近江を抜けると、国へ帰ることにしたのです。ところがその途中、この病に罹ってしまったため、思いがけずも貴殿を煩わせてしまいました。実に身に余るお恵みです。私の半生の命を以ってしてでも、必ずや報い申し上げます」
 左門は云った。
「人が困っているのを見るに忍びないのが、人たる者の心です。あなたの丁寧なお言葉をお受けする理由は御座いませぬ。引き続きここに逗留され、ご養生下さい」
 この誠実な言葉を頼りに、赤穴はここで日々を過ごしていたが、やがて身体は平生の調子に近づくまでに快方へと向かっていった。
 近頃、左門は良い友人を得たと云って、昼夜問わず、赤穴と会っては話をした。赤穴も諸子百家のことをぽつりぽつりと語り出し、問うこと理解することは愚かでなく優れており、また戦術の理論も完璧なものであった。話す事どれ一つ取っても、互いに相手と異なることはなかった。二人は感心し、また喜び、遂に兄弟の盟(ちかい)を結んだ。赤穴の方が五歳年上であったので、兄としての礼義を受けると、左門に向かってこう言った。
「私が父母とお別れしてから随分長い時が経つ。お前の老母は拙者の母でもあるので、改めてご挨拶に伺いたい。母上は私の子供のような心を憐れみ、受け入れて下さるだろうか」
 それを聞いた左門は喜びのあまり、
「母は常に私の孤独を憂いております。あなたが真心の籠った御言葉を母にお告げになれば、母の寿命も延びることでしょう」
 と言って、赤穴を連れて家に帰った。
 老母は喜び、赤穴を迎えて言った。
「私の息子は才学に乏しく、学ぶ学問も今の時代には合わぬもので、立身出世の機会を逃しております。どうかお見捨てにならず、兄として教えを施してやって下さいませ」
 赤穴は謹んで言った。
「優れた男子は義を重んじるものです。名高く、富貴な者は言うまでもありませぬ。私は今母上の御慈愛を受け、弟からの尊敬を得ました。一体どのような望みがこれに優ると言えるのでしょう」
 赤穴は喜び、嬉しく思いながら、また数日そこに留まった。

 昨日今日まで咲いていた尾上の桜も散り果て、涼しい風に浪が吹き寄せられる様からも分かるように、季節は初夏の頃となった。
 赤穴は丈部母子に向かって言った。
「私が近江を逃れてきたのも、元はと言えば雲州の様子を見ようと思い立ったからである故、今一度出雲へ下ろうと思います。やがてはここに帰って参り、
豆と水を糧に下僕となって働いてでも、この御恩をお返ししたいと思います。どうか今の別れをお許し下さい」
 左門は言う。
「それでは、兄上はいつお帰りになるのですか」
 赤穴が答える。
「月日はすぐに経ってしまうものだ。遅くとも今秋を出雲で過ごすことはないだろう。
「秋のどの日にお帰りになろうとお定めになっておられるのですか。どうかいついつの日に帰ると約束して下さい」
「では重陽の佳節に帰るとしよう」
 左門は言った。
「兄上、必ずやこの日をお間違えのないように。一枝の菊花と粗酒を用意してお待ちしておりますので」
 お互いに誠意を尽くして約束をし、赤穴は西へ帰って行った。
 月日の経つのは早いもので、下枝の茱萸(ぐみ)の実も色づき、垣根の野菊も艶やかに咲く九月となった。九日、左門はいつもより早く起き出すと、粗末な家の座席を掃い、黄と白との菊の枝を二三本小瓶に挿し、巾着袋を傾け出した金で酒や食料を買い求め、食事の支度をした。その様を見た老母は言う。
「出雲の国は山陰の果てにあり、ここから百里も離れていると聞きます。お前の兄上は今日帰り来るとは限らぬのに、来たのを見届けてから用意をしても遅くはないでしょう」
 すると左門は、
「赤穴は誠実な武士であり、私との約束を違える筈はありませぬ。その人を見てから慌しく用意をするのでは、赤穴がどう思うことでしょう。恥ずかしいことです」
 と言って美酒を買い、鮮魚を煮て台所へ備えた。
 この日は千里の先にも雲一つない晴天であった。旅行く人々の群群は、
「今日は誰誰が京入りするには絶好の日じゃ。今度の商売で良い利益を得られる兆しじゃろう」
 と行って過ぎ行く。五十歳あまりの武士が二十歳に見える若い連れに向かい、
「こんなに良い日和だと言うのに。もし明石で船を求めていたならば、今朝早く出発して牛窓の海峡に向かっていたことだろう。若い男は余計に物怖じして、金を多く使ってしまうのだなあ」
 という。若い男がそれを言いなだめる。
「殿が上京された時、小豆島から室津の港へお渡りになられたところで、荒波よって何とも辛い目に遭われたということを、その時御供に付いていった者が語っておりました。これを思えば、この辺の渡航は必ず怯えてしまうものでしょう。どうかお怒りなさらず。魚が橋の宿で蕎麦をご馳走させて頂きますので」
 また、馬を引く男が腹立たしげに、
「この死に損ないの馬めは、眼も開けぬか」
 と言いながら、荷鞍を押しなおして馬を追って行く。
 正午を過ぎたが、待っている人は来ない。日も西に沈み、宿へ入ろうと急ぐ人々がせわしそうに歩いていくのを見ていると、不意に外の方ばかりに注目してしまい、心が酔うかのような気分になる。
 老母は左門を呼び、こう言った。
「人の心が秋空のように移ろいやすいものではなくとも、菊が色濃く咲いているのは今日ばかりのことでしょうか。帰るという誠実な心さえあれば、空が時雨模様になったとしても、何を恨むことがありましょう。家に入って寝て、明日になるまで待つのです」
 左門はそれを拒むことが出来ず、母をなだめすかしてから先に寝かせると、もしかしたら赤穴が帰るかも知れぬと思い、家の外へ出てみた。しかしながら銀河の光は絶え絶えに、凍てつく月は自分だけを照らして淋しい闇夜が広がるばかり。番犬の咆哮が澄み渡り、浦波の音もここまで寄せて聞こえてくるかのように、外は静寂としている。
 月の光も山の際に隠れて暗くなったので、今となってはもう来ないだろう、と思い、戸を閉めて家の中へ入ろうとした。その時ふと見ると、ぼんやりとした黒い影の中に人の姿が見える。風に任せてこちらへ来るのを怪しく思いながらも見ていると、何とそれは赤穴宗右衛門であった。
 左門は躍り上がるような気持ちがして、こう言った。
「私は早くから今の間まで、ここでお待ちしておりました。兄上が私との約束を違うことなくこうして来て下さったこと、何とも嬉しく思います。さあ、こちらへお入り下さい」
 ところが、赤穴はただ頷くばかりで何も喋ろうとしない。左門は前に進み、赤穴を表座敷の正座へ迎えて席につかせると、言った。
「兄上のお帰りが遅かったので、母も待ち侘びてしまい『明日にお会いするとしよう』と云って、先にお休みになりました。今起して参ります」
 すると赤穴は首を振ってそれを止めたが、相変わらず物を言わぬ様子である。
「昼夜を通してお帰りになられたので、気も草臥れ、足もお疲れになられたことでしょう。どうか酒を一杯飲んで、御休息下さい」
 左門が言い、酒を暖め、肴(さかな)を並べて赤穴に勧めたが、赤穴は着物の袖で顔を覆い隠し、その臭いを嫌い避けている様だった。左門は言った。
「手前で用意したものなので、御もてなしとしては足りませぬが、これらは私が気持ちを込めて用意申し上げたものです。どうかお拒みにならないで下さい」
 赤穴は相変わらず返事もせず、長い息をついていたが、暫くして言った。
「お前の真心の籠ったもてなしを、どうして拒む道理があろうものか。これ以上お前を騙すことは出来ぬので、本当の事を話そう。どうか怪しまれるな。実は私はこの世の者ではない。忌むべき霊魂が、仮に姿を見せているだけなのだ」
 左門はひどく驚き、言った。
「兄上は何故このような怪しいことを語られるのです。私はまだ夢を見ているのではありませぬのに」
 すると赤穴が言った。
「お前と別れ、私は故郷へ下ったが、国の者は大方勢力の強い尼子経久に服し、塩冶殿の御恩を顧みる者はいなかった。私は従弟である赤穴丹治富田が城に仕えていたので、彼を訪問すると、丹治は利害を説きながら私を経久に会わせたのである。私は丹治の言葉を仮に受け入れ、よくよく経久の言動を眺めていたのだが、確かに万人に優れた勇ましさ持ち、兵隊の扱いには慣れているようだった。しかし知恵のある者に対しては疑いの心をひどく持っているので、信頼のおける家臣というものはいないようだった。ここに長く居ても仕方が無いと思い、私はお前との菊花の約のことを語って帰ろうとした。すると経久は私を怨んでいる様子であり、丹治に命じて、今日に至るまで私を城から出そうとはしなかった。この約束を違えば、お前は私をどう思うことだろう、とただひたすら思い沈んでいたが、城から逃れる術も無い。そこで私は、昔の人の或る言葉を思い出した。つまり『人は一日で千里を進むことが出来ぬ。だが霊魂ならば一日に千里さえも行くことが出来る』と。私は自刃すると、今宵の陰風に乗ってはるばる此処に至り、菊花の約を守ることが出来たのである。どうかこの気持ちを受け取って頂きたい」
 そう言い終わると、赤穴は止め処なく涙を流しているようだった。
「これにてお前との永訣となる。母上に良くお仕え申されよ」
 赤穴は席を立ったかと思うと、かき消えて見えなくなった。
 左門は慌てて止めようとしたが、陰風によって目がくらみ、赤穴の行方を失ってしまった。俯きに躓(つまづ)き倒れた儘、左門は声を立てて大いに泣いた。それに驚いた老母が目を覚まし、左門のいる所を見ると、客席に酒瓶や魚料理が多く並べてある中に左門は倒れていた。せわしく助け起して「どうしたのです」と尋ねたものの、左門は声を呑んで泣くばかりで答えようとしない。老母は再び問い、強く諫めた。
「赤穴が約束を違えるのを怨みに思うのならば、もし明日帰って来た暁には、恥ずかしくて如何なる言葉も出ないでしょうに。お前はそんなに大人気なく、愚か者だったのですか」
 暫くして左門が答える。
「兄上は今夜の菊花の約の為に、わざわざ来て下さったのです。酒肴を用意してお迎えしたところ、それを再三辞退なされてこんなことを仰いました。つまり『しかじかのことがあり約束を背いてしまうこととなったので、自刃して霊魂が百里を来たのだ』と。そして見えなくなりました。その為に母上の眠りを覚ましてしまうこととなってしまいました。どうか御赦し下さい」
 さめざめと泣く左門を見た老母は、
「牢獄に繋がれている者は夢の中で赦免された自分を見、渇きを覚える者は夢の中で水を飲むと言います。お前の見たものもまた、そんな類のものでしょう。よくよく落ち着きなさい」
 と言ったが、左門は頭を振って言う。
「本当です。あれは真実でない夢などではありませぬ。兄上はここにいらしていたのです」
 と、再び声を上げて泣き倒れる。老母は最早疑うことが出来ず、息子とともに声を立てて、その夜は泣き明かした。
 翌日、左門はかしこまって老母に言った。
「私は幼い頃から学問を志していたものの、国に忠義を尽くしたという評判もなく、また家に孝行を尽くしたこともありませんでした。ただ無駄にこの世に生まれてきたばかりでした。しかし兄上である赤穴宗右衛門は、信義の為に一生を終えました。私は今から出雲へ下り、せめて兄上の遺骨を故郷へ納めることによって信を全うしたいと思います。どうかお体を大事になさって下さい。そして私に暫くの暇をお与え下さい」
 老母は言う。
「たとえ何処かへ行ったとしても、早く帰ってこの老いた私の気を休ませておくれ。長く留まり、今日を永久の別れとせぬようにしておくれ」
 左門は、
「生命とは浮かぶ泡のように、朝夕といつまでこの世にあるのか分からぬものです。しかし私はすぐに帰って参ります」
 と言うと、涙を振り払って家を出た。佐用氏の元へ行き老母のお世話を丁寧にお願いすると、出雲へ向かう道を下っていった。餓えても食べ物のことを考えず、寒くとも衣服のことを忘れ、うとうとと眠りに就けば夢の中で泣き明かし、そうこうしている内に十日経ち、遂に富田の大城へ着いた。
 先ず赤穴丹治の家へ行き、姓名を名乗って中へ入った。丹治は左門を迎え招き入れると、
「鳥が告げた訳でもないのに、どうして宗右衛門のことをご存知なのでしょう。ご存知の筈がありませぬ」
 と頻りに尋ねる。左門は言った。
「武士たる者は、自分の富貴や進退のことを考えてはならぬもの。ただ信義を重んじるべきだ。義兄宗右衛門は一度交わした約束を重んじ、この世のものでない霊魂となって百里を来た。それに報いようと思い、昼夜をかけてここまで下って来たのだ。私の学んでいる学問のことで、あなたにお尋ねしたいことがある。どうか明確にお答え頂きたい。昔魏の宰相公叔座(こうしゅくざ)は、病いの床に臥していた。そこへ魏王も自ら参って、叔座の手をとりつつもこう告げた。
「『もしお前が死ぬようなことがあれば、一体誰に国の政を任せれば良いのか。私の為にそれを言い遺して行け』
「すると叔座は、
「『商鞅(しょうおう)は年が若いとは言うものの、珍しくも大変な才能があります。君がもし商鞅を採用されないのであれば、彼を殺してでもこの国から出してはなりませぬ。もし商鞅を他の国へ行かせてしまえば後後になり、必ずやこの国の禍いとなることでしょう』
「と念入りに教えた。それから商鞅を密かに招き、こんなことを言った。
「『私はお前を次の宰相にと薦めたが、王はそれをお許しでない様子だ。私はもしお前を用いぬのであれば、お前を殺すようにと王に教えた。これは君主のことを先に考え、臣下のことを後にした為だ。お前は早く他の国へ去り、害から逃れるのだ』と。
「このことをあなたと宗右衛門の場合と比べてみれば、如何なものだろうか」
 丹治は頭を垂れ、返す言葉もなかった。
 左門は座より進み出て、
「塩冶との旧いよしみを重んじ、尼子に仕えなかった義兄宗右衛門は義士である。ところがあなたは旧主の塩冶を捨て、尼子の下へ走った。これは武士としての義がないと云える。また義兄は信義あることに、私との菊花の約を重んじ、命を捨ててまで百里隔てた私の元へ来た。ところが今、あなたは尼子に媚び諂(へつら)って肉親である宗右衛門を苦しめ、非業の死を遂げさせた。友とするような信義もない。経久が無理に留められたとしても、宗右衛門との長い交友を考えれば、密かに叔座が商鞅に見せたような信義を尽くすべきところなのに、ただ己の利益にばかり走って武士としての風格もないのは、つまりのところ尼子の家風同然である。それなので、どうして兄上がこの国に足を留めることがあろうか。今私は信義を重んじ、わざわざここへ来た。お前は再び、不義の為に汚名を残すがよい」
 と言うや否や抜き打ちに斬り付けたところ、丹治はその一刀によってその場に倒れた。家来達が騒いでいる間に、左門は素早く逃げて姿を消した。
 一方、尼子経久はこのことを伝え聞き、兄弟の信義の篤さに同情して、左門の跡を無理に追おうとはしなかった。


 嗚呼、軽薄な者と親交を結んではならぬ、と。

 



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