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■夢応の鯉魚


●昔延長の頃(醍醐天皇治世の頃)、三井寺に興義という僧がいた。
 その絵の上手さは世間でも有名だった。普段描くものは仏像、山水、花鳥ばかりではなく、寺の仕事のない日には湖に小船を浮かべ、そこで網引きや釣りをする漁師に銭を与え、買い取った魚を元の湖に離し、その魚が湖を遊泳する様子を見てはこれを描いていた。それは興義が年を経る毎に、ますます繊細で美しいものとなっていった。
 或る時、興義が絵に心を凝縮させるあまり眠気に襲われると、夢に湖が出てきて、その中で大小の魚達と戯れていた。興義は目覚めてから、自分が夢で見たものを有りの儘描いて壁に貼り、それを自ら「夢応の鯉魚」と名づけた。興義の絵は非常に上手く、それを褒め称えて欲しがる者は跡を経たなかった。興義は花鳥山水の絵は人々の望みどおりに与えたが、この「夢応の鯉魚」だけは異常なまでに惜しみ、手放さなかった。そして人がこの絵を欲しがるたびに、興義は冗談を言うようにこんなことを言った。
「生き物を殺し、鮮魚を食べるような凡俗の方々に、僧である私の育てた魚は絶対に差し上げることは出来ませぬ」
 この言葉とともに、「夢応の鯉魚」の事は天下で評判となった。
 しかし、そんな或る年に興義は病にかかり、七日後には目を閉じ、息絶え、ついに死んでしまった。徒弟や友人が集まって興義の死を嘆き惜しんだが、亡骸の胸の辺りがわずかに暖かかったので、若しやと思い、皆で死体を取り囲んで見守っていた。するとその三日後、手足が少し動いたようだと思った途端に死体がため息を吐き、目を開いて、眠りから目覚めたように起き上がって人々に向かって言った。
「私は長いこと気を失っていたようだが、一体何日経ったのだろう」
 弟子達は言った。
「お師匠様は三日前に息をお引き取りになりました。寺中の者を始め、日頃お師匠様と親しくお付き合いされていた方々もお見えになり、葬儀のことも準備されましたが、まだ胸が温かいのを見て、棺に納めず見守っていましたところ、只今お師匠様が蘇られたので、『よくぞ葬らずそのままにしておいたことだ』と喜び合っていたところです」
 興義は頷いてこう言った。
「誰でもいい、一人檀家の平の助の殿の屋敷へ行って、『法師は不思議にも生きています。あなた様は今酒を酌み、鮮魚で鱠を作らせていらっしゃるが、暫く宴を中断して寺にお越し下さい。珍しい物語をお話します』と伝えて来なさい。そして屋敷の人達の様子を見てくるのだ。私の言ったことと少しも違わないはずだ」
 使いの者は怪訝に思いながらもその屋敷へ赴き、訳を説明して屋敷に入り、中の様子を覗い見ると、主人の助を始めとして、弟の十郎、従僕の掃守などが座を囲んで酒盛りをしている。使いは師の言葉とこの様が異なるところがないのを不思議に思った。助の屋敷の人々は使いが伝えたことを聞いてひどく不思議がり、一旦箸を止め、十郎と掃守を連れて寺へ行った。
 興義は枕から頭をもたげ、助にここまで来てくれた礼を述べると、助の方でも興義に蘇りの祝いの言葉を述べた。興義はまずこう問うた。
「試しに私の言うことを聞いて頂きたい。あなた様、漁夫の文四に魚を用意するように仰ったことがおありではないですか」
 助は驚き、
「確かにそんな事がありました。どうやってお知りになられたのです」
 興義は言った。
「あの漁夫は三尺ほどの魚を籠に入れ、あなた様の屋敷の門に入りました。あなたは弟御と南面の場所で碁盤を囲んでいらっしゃいます。側らには掃守がいまして、大きな桃を食べながら碁の手を見ています。やがて漁夫が大魚を携えて来たのをお喜びになり、高杯に盛られている桃を漁夫に与え、また杯をお与えになり、三献を飲ませなさいました。そして調理人が得意そうな顔をして魚を取り出して鱠にするところまで、私の申すことに間違いはないことでしょう」
 助の屋敷の者はこれを聞き、怪しく思い、また心は乱れながら、興義の話がこれほどまでに詳しく屋敷の様子を言い当てている理由を頻りに尋ねた。すると興義はこんなことを語り出した。


「私は最近病に苦しみ、その耐え難い程の辛さのあまり自分が死んだことも分からず、体が熱いのを少し冷まそうと思い、杖を突きながらも寺の門を出ました。すると病の苦しさは忘れたかのように消えて、籠の鳥が空へ帰る様な気持ちになったのです。山となく里となく歩き進んでいくと、やがて普段の湖のほとりへ出ました。湖水が碧色なのを見て、夢心地に水を浴びて遊ぼうと思い、そこへ着物を脱ぎ捨て、身を躍らして深いところへ飛び込み、湖のあちらこちらを泳ぎ廻っておりました。私は幼い頃から水に慣れているという程ではありませんでしたが、思うままに戯れていました。今思うと馬鹿らしいような夢心地にありました。
「しかしながら人が水に浮かぶのは、魚のように快く泳ぐというわけにはいかないものです。ここで再び私の中に、魚が水に遊ぶのを羨む気持ちが起こりました。すると側に一匹の大魚がいて言いました。
『あなた様の願うことは簡単に叶えられます。しばらくお待ち下さい』
「大魚は遥か湖の底へと去っていったが、しばらくして冠を被り、装束を着た人が先の大魚にまたがり、沢山の魚類を引き連れて浮かび上がってきてこう言いました。
『海の神のお言葉を承って参った。老師は日頃から魚類を放し、その命を救うと言う善行を積んでおる。只今より、湖に入って魚達と遊んでくれるよう願う。とりあえず金鯉の服を老師に授け、水府の楽しみを味わえるようにさせて下さるということだ。ただし、餌の香りにつられて釣り糸に掛かり、その身を失うことのないように』その人はこれだけ言うと、何処へ去っていき見えなくなりました。
「あまりに不思議なことが起こった上、自分の身体を見てみると、いつの間にか、私は金色に光る鱗を持った一匹の鯉となっていました。私はそれを怪しみもせず、尾を振り鰭を動かして、思いのままに水中を泳ぎ回りました。
「まず長等山から吹き下ろす風に立つ波に身を任せ、滋賀の大湾の水際で遊んでいると、道行く人が着物の裾を濡らして行き交う様子に驚かされました。そこで比良の高山の影が映る深い湖底に潜ろうとしましたが、隠れにくい堅田の漁り火に惹き付けられて、夢か現かも判然としません。夜中の湖上に止まる月は、鏡の山の峰の上で澄み渡り、港の数ほど沢山の隈もなく、人の心を惹き付けるかのように輝いています。沖津嶋島、竹生島、そして波に映る竹生島の朱色の神垣も、それは驚くべきものでした。伊吹山から吹き下ろすあれほどの山嵐に乗って、旦妻の渡船も漕ぎ出すと、葦の間で見ていた夢も覚まされ、矢橋の渡し守の竿さばきからは逃れ、瀬田川の唐橋にいる橋守にも何度か追いかけられました。日が暖かい時は水面に浮かび、嵐の激しい時は千尋の水底で遊んでいました。
「ところが、急に空腹を感じて食べ物が欲しくなり、私はそこらじゅうを探し回りました。しかし食料を得ることが出来ずに狂おしく思いながら進んで行きますと、すぐに文四が釣り糸を垂れているのに出会いました。その釣り餌からは大層良い香りがしたのですが、私は再び水神の戒めを心に誓いました。
『私は仏の弟子である。少しの間食べ物を得ることが出来ないからと言って、どうして浅ましくも魚の餌など食べようか』
「と、そこを去りました。ところがしばらくすると、飢えはますますひどくなってゆき、私の中を再び或る考えが巡りました。
『今はもう我慢が出来ない。たとえこの餌を飲み込んだとしても、愚かに捕らえられるかどうかは分からぬではないか。第一この文四は顔見知りの男なので、何の遠慮があろうか』
「と、遂に餌を飲み込んでしまいました。すると文四はすばやく糸を引いて私を捕らえました。
『私をどうする気だ』
「と叫んでは見たものの、文四は何も聞こえていないような顔で私を手に持ち、縄で私の顎を貫き、葦の間に船を繋ぎ、私を籠に押し込んであなた様の館の門へと入って行きました。あなた様は弟御と南面の部屋で碁を打ってお遊びになっていました。掃守が近くにおりまして、木の実を食べています。そして文四が持ってきた大魚を見て、そこにいた方々は大層感心されていました。私はその時人々に向かい、声を張上げて頻りに叫びました。
『あなたがたはこの興義をお忘れか。許して下され、私を寺へ帰して下され』
「しかし皆様は私の言うことがお分かりでない様子で、ただ手を打ってお喜びになるばかりでした。鱠を作る料理人が、まず私の両目を左手の指で強く押さえ、右手に研ぎ澄まされた刃物を取って、俎板に乗せました。そして私を丁度切ろうとした時、私は苦しさのあまり大声を張上げ、
『仏弟子を殺すということがあってなるものか。私を助けろ、私を助けろ』
「と泣き叫びましたが、聞き入れてはくれませんでした。そして、とうとう切らると思ったその時、私の夢は醒めたのです」


 人々はこの話に大層感心し、不思議に思いながら、
「師の物語を聞いて思い返してみると、師が叫んだと言う其の度毎に魚の口が動くのを見たものの、決して魚が声を出すことはありませんでした。このようなことを目の当たりにしたと言うのは何とも不思議なことです」
 と言って従者を屋敷へ走らせ、残った鱠を湖に捨てさせた。
 興義の病はその後快方へ向かい、それからずっと後になって天寿を全うした。興義の臨終の際、老僧の描いた数枚の鯉の絵を取って湖に撒くと、絵の魚は紙から離れ、水の中で泳ぎ戯れた。その為、興義の絵は後の世に伝わっていない。
 その弟子の成光という者が、興義の不思議な能力を受け継いで、その時代に名を成した。閑院の殿の襖障子に鶏を描いたところ、生きた本物の鶏がその絵を見て蹴ったということが古い物語集に載っている。


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